昭和四十八年五月十三日 朝の御理解
御理解 第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をした ということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげ でこれだけ出世したと言えば、それだけ師匠も喜ぶ。おかげ を落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も 喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」 私共が信心させて頂いて、信心の例えば機微、神様と私共の間に交流しておる、その交流の状態がです、本当に交流しておるんだなと、神様とのつながりをそこに実感する。
そこからその実感がお礼となって現れる。私はこれくらい神様の心をゆさぶるものはないと思うですね。
私はここで神も喜び、金光大神も喜びとおっしゃってある事はね、そういう意味での喜びだと思うのです。本当にあなたのおかげでこれだけの事をおぼえましたと、例えば弟子が本当に覚えて、段々幸せになって出世をして、その師匠に対して、本当にあなたによい仕事を教えて頂いておったおかげで、今日こんな出世をいたしましたという事はね、もう師匠にとってこれほど嬉しい事はなかろうと思うです。
私共と天地の親神様との間でもそうです。金光大神のお取次によって本当におかげを受けて、これほどしのおかげを受けられる状態になってきたという事をです、心の底から、いうならねお礼を申し上げれる心。
神様と私共は本当いうたら、いつも交流しておるんです。神様が私共の上の事をいつも思い続けておって下さる。それで私共も神様の事を思い続ける。そこから金光様の御信心ははじまる。
そのお互いが思い思われ、願い願われておる中から、私共は時たま真に有難い、本当におかげを頂いてと思う事がある。しかもそれがです、金光大神あなたのおかげで天地金乃神様あなたのおかげでこのような、例えばここでも出世をしましたとか、わかりましたとか、おかげを受けておりますとかという、例えば時に、はじめて神様に喜んで頂く、いうなら、神様の心をゆさぶる程しの心だと私は思う。
真実の心というか、真実というものはね、相手の心をゆさぶります。いうならば、赤と思うておっても、白に思い替えさせる事が出来ます。
人の心をゆさぶるほどしのもの、それは真、以外にはない、真実以外にはない。
その例えばです、そんならおかげを受けましたというてお礼を申し上げる事もです只、そんなら自分の思うようになる事だけの場合にですよ、お願い通りになる事ばかりをです、又夢にも思わなかったというようなお繰り合わせを頂いた時だけ「ああ、あなたのおかげで」と、これでは相手の心をゆさぶらんです。信心でいうなら・・・ 信心の道を教えて頂いておったおかげで、こういう難儀に直面致しました。このような問題に直面致しましたけれども、おかげでこんところを有難く受けてゆけれるというような私はお礼心。
こういう素晴らしい道を教えて頂いておったという事が、有難いとわかる時にです金光大神も教えがいがあった。天地金乃神様もおかげのやり甲斐があったというて、喜び、氏子も喜びとおっしゃる。
そういうお礼を申し上げられるような心こそが、氏子自身も助かっておる時なんです。信心しておって、どうしてこんな事が起こってきたじゃろうかという時には、助かっとらん。日頃の教えはどこへか行っておる。
これではね、神様も喜び、金光大神も喜び、又氏子もの喜びという事にはなってこない。
私は今日はね、本当にこれだけの事を頂いた。いわゆる出世をして、そしてお礼を師匠さん、ああたのおかげで、これだけの出世が出来ましたと師匠さんにお礼を言う時に、私は師匠としてこんなに嬉しい事はなかろうと思うです。
例えば成功をしたけれども、お師匠さんをないがしろにしておる。お礼も出てこんというよな事では、もういうなら、人情地に落ちたというような事でありましてね、ここからはよいものは生まれてこない。
師匠さんあなたのおかげで今日私共一家が立っとりますと言うて、おみやげのいっちょも持って時々行くような事になったら、もう師匠はこれより嬉しい事はなかろうと思うのです。
やっぱそこんところをね、神も喜び、金光大神も等、氏子も喜びじゃというのは、そこのところを教えておられると思うのです。
そんならおかげを頂いて、結構けだらけだという時に、どうぞおかげを頂いて有難とうございますというなら、これは誰でん言うでしょうもん。
金光様の信心はそれを頂けれるけれども、それを教えてあるのじゃない。金光様の道はいつでもどんな場合でも、有難いと言えれる道を教えてあるのです。そこに私共の助かりがあるのです。
思うようにならない。苦しい事がおこって来た。悲しい事に直面した。その悲しい事やら、苦しい事やら、思うようにならない事をです、私共が心の糧として頂き、いわゆる心の田地の肥料として、頂れる程しの道を教えて頂いたという事は、何と有難という、そういう有難いなんです。
ここで神も喜び、氏子も喜びというのは・・・・・勿論、金光大神も喜びじゃという事はそういう事なんです。
そういう私は心の状態を、真に現してむかってくる時に神様の心をゆさぶる時というのは、そういう時ではなかろうかと思うのです。
そこで私共はです、いつもたえずそこんところの稽古をしてゆかなければいかん。 今朝、二時半頃でした。何か家内の部屋でゴトゴト、ゴトゴト言ってから、電気をつけたまま出て行ったから、何じゃったかと私が言いましたら、今若先生がやって来てから、総子が熱発して、しとるけん心配してから、家内に相談に来とるところでした。それで私は床の中ですぐ、御祈念をさせて頂きましたら「自然との対決」と神様から頂きました。自然に起きて来る。もう親が子供の事を思うたり、心配したりしないはずがありません。しかもとにかくはじめてでしょう。そんな親達がびっくりするような熱発をしておるわけです。
それで夜も夜中もない。そしたら家内はもう体験者ですから、「それは心配することはいらんよ。知恵熱じゃろう」と言うておるわけです。
私はそうは思わない。そうは頂かない。それはやはり神様におすがりしなければおられない。そこで神様におすがりをさせて頂いたら、自然との対決と、自然とのそういう難儀な問題と対決して、これに勝っていくという事が力を受けることなんです。 私は今日はじめて、朝の三事半にここに出て来てから、直子と幹三郎を前にしてから、話した事でした。
直子さんあんたが学院で、それこそ人がたまがるように永い間、病気をして、とにかく大変な苦しみだったらしい。公子さんからずっと手紙が来よった。それをもう本当に神様一心におすがりをしていかれる姿は、もうさずかに合楽のお嬢さんと皆が言うくらいじゃった。。
それでそこんところをおかげを頂きぬいて、そんならそれこそ、薬一服頂かずにおかげを受けたという事は、まあ、直子さんあれはあんたの力になっとろうが。
幹三郎あんたが、ああいうもう本当に医者がいうならば、百人が百人、これで助かる者はおらんというような病気になった時にです、あん時にお父さんが、あの問題に対決した時にです、お父さんは楽にあの問題と対決して勝ちえた事が、あんたの助かりという事になったろうが。
だからそういう時にです、楽にそれに対決出来る、常日頃、様々な問題と対決してそれに打ち勝っていく稽古をしとるから出来るです。
だから本当に、こういう問題が起こっておる時に、こういう楽な心でおれるという事は、金光様何と有難い事でしょうか。こういう素晴らしい道を教えて頂いておって有難いとお礼を申し上げるようなその心が、神様の心をゆさぶるのです。
それから私はすぐ御祈念させて頂いて、それから三十分くらいしましてから、若先生が部屋に行きました。そしたらもう、ぐ-ぐ-言うて寝とりました、総子が・・・ そしてぐ-ぐ-いうて寝とるのを見ながら、これからちょいちょいあるよ、子供を使うて神様が稽古をさせて下さる。それは自然との対決とおっしゃる。
だから対決に迷うたり、ぐずぐずしたり、うろたえたりしちゃでけん。これは決してね、神様はそういう例えは試験をして下さる時に、教えとらんところは試験問題に出さん。必ずいっぺんは教えておること。いやいっぺんも二へんも繰り返し繰り返し教えておる事。そして自分もわかったような気でおること。
さあ、そこでわかっておるかどうかと言うて、私共の心をゆさぶって下さる。そん時に、さあ日頃頂いておる教えをここで現さねばというような生き方をです、これからは又親を、特に子供の事を通して信心の稽古をさせて下さるからと言うて、こちらへ三時半に、毎日のように出て来る事が出来た。それを伝えて・・・。
私達が様々な日々の信心の稽古をさせて頂く、その問題というのは、もうその問題との対決という事は、自然に起きてきたその問題との対決なんです。
自然との対決にです、負けてばっかりおったんでは力はつかん。これは私がいつも申しますように、人間の様々な難儀の元というのは、めぐりでしょうけれども、めぐりが五十の力で向かって時に、私共が信心を五十の力で対決するなら、同じ力で対決するなら、もう絶対信心が勝つ事になっておる。
これは昔から、正しい者が勝つという、正と邪というなら、同じ五十と五十の力ならば正しい方が勝つようになってるのが、これはもう法則です。
ところがめぐりの力が五十、こちらる力が四十というたら、やはり邪であってもその邪に正しい者が負ける事になる。
だから決して神様は、私共に力以上の問題を起こして下さるはずはない。どんなにそれが悲しい問題であろうが、きつい問題であろうが、苦しい問題であろが、日頃教えて頂いて、もうそこんところの力は出来ておるという見極めがつかなければ、そういう難儀な問題は、起きてくるもんじゃありません。
その難儀でへとへとしとるという事は、めぐりが五十の力で向かって来るのに、こっちが四十五ぐらいの力で向かうとるから、へとへとなんです。
もう幹三郎は助からんと例えば言われた時にです、これが千の力で私に迫って来た時に、私が九百の力であったら、あんなに楽な気持ちにはなれなかったでしょう。
それこそ、千よりももっと千百ぐらいな力で、私がそれを受けたから、私も楽であったし、わざわざ息子の事だからと言うて飛びだすこともなからねば、あわてる事もなかった。だから、しかも助からんはずのものが助かった。
勿論、沢山の人のお祈り添えもあっての事ですけれども。だから神様は私共の上に起きてくる問題をですね、五十の力で起こってくるならは、もう五十の力は出来とると、まあ神様も知っておられるから、五十の問題が起きてくるのですから、私共日頃頂いておる御教えを思わせ頂いたら、その問題は、いうならば、楽に通りぬけられるようなおかげを頂かれる。
そのこういう難儀な問題をです、こういう気持ちで通りぬけられるという事が有難い。ここんところを教えて頂いておったという事が有難い事だと、師匠にお礼を言うような心が師匠の心をゆさぶる、金光大神の心をゆさぶるのです。
私はこの本当に神様は、私共の心をいつもゆさぶって下さるような思いがするんですけれども・・・・。
昨日、ある方から、大きな地球儀のお供えを頂いた。私の四月一日の誕生日一家中で親先生に何を誕生お祝いに差し上げようかと言うて協議一決したのが地球儀だったそうです。
どこどこでいつかあんな立派な地球儀を見た事がある。だからあれをお供えしようというごとなって、久留米のそういう扱っている所へ行ったけれども、一軒もなかった。福岡にも紹介してもらったけれども一軒もなかった。
そこでしばらく待ってもらうならば、取り寄せましょうか、あつらえさせましょうかという事になって、そんなら時期を待っておって、昨日一昨日出来てきたわけでしょう。だから昨日の朝、お供えになったわけです。四月一日の誕生のプレゼントが昨日来たわけです。
私はそれの相談を受けた時にです、何の為に私に地球儀やらお供えしなさるじゃろうかと、まあ子供か何かなら、勉強室にかざっておくという事もあるけれども。
けれども、どういう事だろうかと、私もそうにゃ思うたけれども、お供えするとおっしゃるから、いいや地球儀なんてんいかんよ、他のもんがよかよとも申しませんでした。それは結構ですなと言うておったから、昨日それのお供えが来たわけです。
見事な、今のは凹凸もありますね。山なんかは高くなっている。私はあの地球儀を見てからもう本当に、昨日、これは私の実感でした。
本当に世界の偉大さというか、もうそれに対してもう日本は、ちょいと赤いコショウをつけたくらいでしょう。ほんなちょいとコショウをつけたぐらい。
さあもう燐国の支那の大きい事、ロシアの大きいこと、アフリカの大きいこと、北米、南米の大きいこと、それに日本はちょっこと赤いのがひっついとるだけ。
しかも九州ちゃ点で押したぐらい。ナシ豆ぐらい。その合楽ちゃもうそれこそ点で押したがたじゃろうと思う。
その合楽からです、この地球全体を救おう助けよう、そういう働きを、ここから起こそうというのが和賀心時代を創るというのですよ。
世界総氏子の助かりを、世界各国のいわゆる共存共栄を、人間の本当の幸せというものはです、人間が皆んな和らぎ賀ぶこころを願いとする、心の状態に皆んなが姿勢を向けなければ、どんなに科学を発達しても、医学が発達しても、学問が例えば発達しましても、人間の幸せにはつながらない。
まず、問題は心だ。しかも心は和賀心という和らぎ賀ぶ心を目指すという事から、人間の本当の幸福があるんだというわけなんです。
そういう願いを立てておる。あの地球儀を見てあらためて私はそれを実感した。
これは大変な事だぞと、とても千年、一万年で出来る事ではなかろうけれども、けれどもやはり千里の道を一歩から、やはり自分の心の中から自分の家庭から、自分の周辺に縁のある限りの人達にです、お道の信心をわかってもらい、私はがかくおかげを頂いておるという事実をひっさげるのです。
和賀心時代を創るという運動に参画させてもらわなければいけないという事。それから私はここの御用が終わってから、食堂に下りらせて頂く、いつも新聞にをこう眺めさせてもらう。
ところがね、西日本新聞の漫画の欄に「地球を救え」という漫画が出ておりましたしかも絵に地球儀が描いてあるというところ。
私は繁雄さん、これはとっといて下さい。これは地球儀と一緒にとっといて下さい 例えていうならばです、合楽がこれからとれだけ続くか知らんけれども、とても地球儀のお供えなんかする人はまずなかろうと思うと。そんなら西日本新聞にです、これは他の新聞でも同じでしょうけれども、地球儀の絵を描いて、しかも私がいつも言っておる地球を救えといったようなですね、いうならば、事が出来るような事もまずなかろう。
もう、とにかく神様の御働きというものは合楽にかけられておる。神様の願いというものは、もうこのように蜜なるものですという事。
それこそ神様が、私の心を、私共の心をゆさぶるかのように感じるです。本当にかれが手かの願いだなという事がわかるでしょうが。
世界中の氏子が助かるという事が、天地の親神様の願いであるという事をです、昨日地球儀のお供えと、昨日の朝の西日本新聞に出ておるところの・・・・私はいつも新聞から、私の心の状態というものをいつも頂くのです。あの記事の中から、そのつながりというか、いわゆる神様との交流というものがです、そのようにして私共に私の心をゆさぶるように。
それからゆうべ秋永先生達がお礼に出てみえて、私がその話をしたら、その地球儀を私の部屋に持ってきた。それで私の部屋に地球儀をかざらせて頂いた。
今朝も起きる時にその地球儀に向かってです、御祈念をさせて頂いた。本当に地球を救え、例えばそれは漫画で、漫画家の頭の中に働きが起こったんですしょうけれども、それはその人の頭から起こったんじゃない。
天地の親神様がその漫画家を通して、私に話かけておられるんだとしか思えなかった。こういう例は合楽の場合いつもでしょうが。毎月ですよ。厳密に言うたなら・・・・。そういう天地の働きをです、私の上に合楽の上に、皆さんの上に現しておられる。それを神様はゆさぶるように、こうやって、本当の事をわかってくれよ。本当の事を願ってくれよと言うておって下さってあるのだけれども、私共がゆさぶられよっても、それを気がつかんといったようて事では相すまんでしょう。
今日は十三日会、合楽では神様の願いが成就する日として大事にする日。その大事にするという日は、私共は本気で大事にしょうというような私は心を起こす時にです神様の感動が伝わってこないはずはない。
今日私は、この五十九節から、神様の心をゆさぶるような心、又は行い、言葉というものがです、お師匠さん、あなたのおかげでこういうふうに幸せになりましたと言や、師匠も喜ぶと言われるように、金光様もああたの御教えを頂いてです、こういう例えば、難儀に直面しておりますけれども、ここをこういう対決のおかげを頂いてです、これに打ち勝つ力を与えて頂いておるという事は、何と有難い事でありましょうかと、お礼を言えば、神も喜び、金光大神も喜び、そこに氏子の助かりがあり、私共氏子もの喜びじゃとおっしゃる。その喜びを頂いていく事が出来るのてす。
信心というのは、自分の思うようになるという事だけがおかげではありません。悲しい時の神頼み的な信心からです、段々おかげを頂いて、昨日の福岡支部の大祭の後のお説教の中に「和楽、信楽、合楽」という御理解を頂きました。
和楽というのは、さっき私が申しました自然との対決に於てそれを有難く受けてゆく。もう腹は立てませんといったようのが、和楽の徳を受ける事なんだ。
信楽というのは、神様を信じて疑わないというところから、どういう命にかかわるような問題が起きてもです、驚かんですむほどしの心を信楽と言うのです。
そんなら、そういう信心、信楽と和楽とが一つになって、そこから生まれてくるのが合楽だと。合楽というのは、神も助かり氏子も立ち行く、神様も楽なら氏子も楽という信心、これを合楽という。
そういうおかげを頂かしてもろうておる。そういう道を教えて頂いておるという事が有難いお礼を申し上げれるような時にです、神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜びという事になってくる。
神様とても金光大神とても、本当に教ええ甲斐があったという事になってくる
和楽、信楽、そして合楽、神様も助かって下さる。神様も喜んで下さるというおかげを頂かせて頂くという事が、お互いの信心の究極のいわば願いであり、姿勢でなからなければならない。
それを昨日の朝の御理解を頂くとです、それこそ狐狸でさえ祭られる事を喜ぶというではないか。まして人間は万物の霊長なれば死したる後、神に祭られ神になる事を楽しみに信心せよ。
だから金光様の信心の目的はね、ここのところを目的とする事なんです。いうなら和楽、信楽を身につけて、そして合楽のおかげを頂かして頂くという事が信心の目的なんです。楽しい事なんです。
死したる後、神に祭られ、神になるという事を楽しみの信心、それが目的でなからなければならんのに、只、この事をお伺いせんならんから、この事を頼まねばならんからと言うてお参りをしておるとういのであったら、いわば信心の本当の目的が違うという事になりましょうが。
勿論、願わなければなりません。けれども信心のぎりぎりの目的というものをです神に祭られ、神になる事を楽しみの信心。わが心が神に向かうていく。
それは一歩づつでも、一分でも一厘ずつでもよいから、それに向かって進んでゆくという事が、お道の信心なんです。
そうい事がわからせて頂いたとお礼を申す心、それを形に現す心、それが十三日会なんです。午前中、草一本でも取らせ頂こう。これがお礼の心から生まれてくる時に神様の心をゆさぶらんはずがない。
しかともないものでも、もろうてから本当に有難とうございましたと心から喜ぶならね、この次にはまちっとましなものをあげよう、あげたいという気がするでしょうが。いくらやったっちゃお礼を言わん、自分の気にいったものだけ有難うございますと言うばっても、気にいらんものはごげなもんどもやってから、残りもんどももろうたと言うてから、かえって腹かく人がある。
例えばそれは残りものであってもです、それを本当に有難いとう喜ばして頂くという事が、次のおかげにつながる。
道理でしょうが。もうあげなしかともないもんあげたばってんか、あげん一家中で喜びなさるけん、又まちったましなもんをあげたいという気が起こるでしょうが
神様として同じこと、そういう時に喜べれる心こそが、お礼を言う心こそが、神様の心をゆさぶるのです。
どうぞ。